福岡西部バプテスト教会 信仰告白

前文

私たち福岡西部バプテスト教会は、福岡城西キリスト教会・姪浜バプテスト教会・長住バプテスト教会を母教会とし、主にある兄弟姉妹の支援を受け、連盟の全国支援拠点開拓伝道所として、1999年に開拓伝道を始めた。先立ちたもう神のあわれみと恵みを心から感謝したい。
私たちは、平和が脅かされ、小さき者・弱き者の生活が危機に瀕している社会において、「アジアを臨みつつ、前原から西へ向けて」イエス・キリストの福音を伝えていくため、教会組織をするにあたり、共通の信仰を確認し、以下のように信じ告白する。 

1.聖書

聖書は、聖霊の導きにより書かれた旧約と新約とによってなる。
聖書は、人類とすべての被造物に対する神の救いとその約束の書である。この聖書は、私たちに生きる力と喜びと希望を与え、信仰生活の唯一の規範を示すものである。 

2.イエス・キリスト

イエス・キリストは、聖霊によってマリアより生まれ、神の国の福音を宣べ伝え、幼子を愛し、「最も小さき者」に仕え、病人をいやし、囚われている者を解放された。
イエス・キリストは、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架の上で殺され、死んで葬られ、陰府にくだり、3日目によみがえらされた。それは私たち人間の罪のための贖いであり、すべてのものの和解のためである。そしてイエス・キリストは、天に上げられ、神の右にいまし、今も被造物の主・歴史の主として私たちを導いておられる。このイエス・キリストこそ私たちの生と死の主である。 

3.神 

イエス・キリストにおいて全き形で現される父なる神は、創造の主にして、ばじめであり、おわりであり、全知全能である。その独り子、イエス・キリストをこの世につかわされた父なる神は、聖霊によって義と愛と恵みとを示され、歴史の主として私たちを導かれる。 

4.聖霊

聖霊は、父なる神がイエス・キリストにおいて現された救いの出来事を信じさせ、「イエスは主である」との告白に導き、教会を成立させ、今も生きて働いておられる神である。
聖霊は、信仰・希望・愛をはじめ、多くの実を結ばせる。その最大のものは愛である。また私たちの祈りや被造物のうめきを、父なる神にとりなしてくださる。 

5.人間

私たち人間は、神により良しとされ、神に応答すべき存在として創造された。しかし、人間は神との契約を破り、神に背く罪を犯し、罪の責任を転嫁し、自己を絶対化した。その結果、神と人・人と人・人と被造物との関係が壊れた。
それにもかかわらず、神の恵みにより、私たち人間はイエス・キリストを信じ、罪の赦しと和解の福音を受け入れ、隣り人と共に生き、神の前にへりくだって、すべての被造物と共に責任を持つて生きる者とされる。 

6.教会

教会は、神の恵みと導きにより、聖霊によって召し集められ、キリストを主と信じて告白し、バプテスマを受けた新生者の群れである。
教会はキリストをかしらとするからだであり、世の救いのために建てられた。キリストと教会につらなる一人びとりは、ぶどうの木とその枝である。私たちは、互いの違いを違いとし、信仰と希望と愛をもって赦し合い・助け合い・励まし合いつつこの世に仕え、すべての人にイエス・キリストの福音を伝えていく。
教会は主にあって一人びとりが平等である。各個教会は主にあって自主自立であるが、福音宣教において協力を惜しまない。 

7.バプテスマと主の晩餐

私たちは主の恵みに与る信仰告白の、見えるしるしとして、バプテスマと主の晩餐の二つの礼典を執り行う。
私たちはイエス・キリストを主と告白し、バプテスマを受ける。その形は、古き人がキリストと共に十字架につけられ、復活とともに新しい命として生かされることを象徴する浸礼である。
主の晩餐は、キリストの死を記念し、新しい契約を象徴するパンとぶどう酒を共に食することによって、主の死を告げ知らせ、週末まで繰り返される礼典である。 

8.礼拝から始まる生活 

私たちは、週の初めの日を「主日」として、キリストの復活を記念する礼拝にあずかる。主の日の礼拝において、神を讃美し、祈り、み言葉に聞き、罪を悔い改め、感謝の献げものをし、教会に連なるすべてのものと共に喜び、共に悲しみ、祝福を受けて世に遣わされる。
主の日の礼拝から始まる生活は、神の恵みへの応答として、感謝と希望をもって生きつつ、それぞれの遣わされた場において、主を証し、「最も小さい者」に仕え、神ならざるものを神とせず、主が創られたすべてのものと共に、慎み深く生きる。 

9.教会と“国家”

イエス・キリストは教会の主であるとともに、生(せい)の全領域の主であり、すべての権威・権力に対しても主である。
“国家”は神からの委託により、公道と正義を行い、苦しむ者と乏しい者の生命と人権・自由を護り、平和を求めてこれを追うべきである。“国家”が神からの委託に反し、本来持っていない祭祀権を行使しようとするとき、私たちは信教の自由を求め、政教分離の原則を守り、平和をつくり出すため、み言葉に従って、為政者の見張り人となり、またとりなしの役目を担っていく。 

10.終末と希望

私たちは、主イエス,キリストが 「わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る」(ヨハネ14:28)と言われた約束を信じる。時期や場合は私たちの知るところではないが、その時キリストは、生ける者と死せる者とを審き、全被造物を救いの完成に入れたもう。
私たちは、主が約束された終末を畏れつつ、み言葉に従い、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りつつ今を生きる。
マラナ・タ、主イエスよ、きたりませ。アァメン。 


2005年3月21日